効率的な読書術(前編)

こんにちは外苑ソーシャルアカデミーの山田です。

いま、大人の間でも学ぶことが大きなムーブメントになっており、学び直しや新しい分野に取り組みたいという人が大変増えています。多くの人々がうわべだけの娯楽や作りものに飽き、より価値のあるもの、知的好奇心を刺激するものを求めているように感じます。所有するものの価値や社会的なステータスではなく、より人生を意味のあるものにすることの大切さから、知識に対する欲求が高くなっているのかもしれません。私も、勉強したいから本を紹介してほしいと言われることが大変多くなりました。

これは大学生も同じ傾向にあります。大学生の中でも賢く意識が高い学生たちは、価値の高い大学時代の過ごし方は、結局は多くを学び、多くを体験することであると気づいています。

大学生は自分で勉強していくことが必要です。専門分野に取り組むことは当然ですが、それ以外にも大学時代に読んでおくべき本というものがあります。それは一般教養として若いうちに身につけておく必要がある本たちです。定番は西洋思想や、明治以降の名著とされる文学の本などですね。これは文系理系関係なくひと通り取り組んでおいた方がよい本です。

なぜ、思想の本を読んでおく必要があるのか。それは、この世界の多くの事象を、明確に説明できるようになるからです。例えば、何が社会問題が生じたとき、同じ問題が起きないよう私たちは新しく規則を作ります。それが抑止力とになるからです。住み心地の良い社会にしようと、問題が起きるたび、私たちはせっせとルールを作ります。しかし、それが繰り返されると、次第にルールだらけの息苦しい社会になってしまいます。住み心地のよい世界を作ろうとしていたのに、いつしか逆効果になってしまうのです。こうした事象は自己疎外の論理で捉え直すことで、より良い世界を作るための方向性がこれでいいのか、これまでの手法が正しかったのか、検証したりバランスをとったりすることができるのです。

あるいは、最近少年の凶悪犯罪が増えている、闇バイトなんかが横行して恐ろしい世の中だと言われます。白昼堂々と押し込み強盗を働くような、とんでもない時代だと。お金のない若者が、罪の重さもよく理解せずに重罪に手を貸してしまう。世の中がどんどん悪くなっているのではないか。

本当のところはどうなのでしょう。実は少年犯罪の発生数は、この数十年どんどん減少しているのです。世の中が悪くなっているというのは錯覚なのです。こんな思い込みをパースペクティヴィズムの視点で捉え直すことで、データをもとに真実を正確に捉える必要性に気づき、そこに錯覚があることを明らかにできます。このように教養には、曖昧なものを明確にしたり、問題を可視化する力があるのです。

もう一つ、教養を身につけるべき理由として、とても大事なことがあります。それは、アカデミズムが世界中の知的階層における共通言語だということです。特に西洋思想は一般教養としてグローバルに通用する価値ですから、海外に出るのならしっかり学んでおくことが非常に重要です。私自身、海外でインテリ層と交流するときに、西洋思想の論理で会話が進んだ経験が何度かあります。一般教養は、彼らが相手を見るひとつの大きな判断材料になっており、普通に話題になることは少なくありません。一般教養はコミュニケーションに奥行きと説得力を与える役割を果たします。いくら英語ができても、こればかりは知っていなければ対処できません。

また、教養には国際常識も含まれます。外国人の友達を夕食に招いたとしましょう。クラッシック音楽を流したとします。そこで流してはいけない作曲家がいます。もしワーグナーを選曲したら、その友達は二度と口を聞いてくれなくなるかもしれません。ワーグナーは名作を沢山残した天才的な作曲家ですが、国際社会では反ユダヤ主義の象徴です。ヒトラーが彼を寵愛したことは有名な話で、外交の場では今でもワーグナーは決して流されません。その友達はユダヤ教徒かもしれないし、そうでなくてもあなたを誤解する可能性があるのです。まともな教養がある人ならそんなミスは考えられないのです。教養は国際感覚そのものでもあるのです。

一般教養をつけるには、やはり本に取り組む必要があります。とはいえ、何から学べばいいのか、どのように続ければいいのか分からない人も少なくないはずです。また難解な書籍も多いですので、GSAの定例講座では、特に西洋思想について、その入門部分を分かりやすく解説し、勉強に取り組みやすくするためのサポートを行っていきます。ひと月に1テーマを扱い、書籍も紹介し、みなさんがそれに取り組んでいくための入り口をスムーズに提供していきます。当面は各テーマ一度ずつしか講座は行いませんので、機会を逃さず参加していただければと思います。勉強のペースメーカーとしてぜひご活用ください。

西洋思想は文系の学生にとってはもちろん必須領域ですが、私は理系の学生にぜひ西洋思想に取り組んでみてほしい思っています。私ももともと応用遺伝学をやっていた人間ですので、人間世界において本当に重要なことがらは、理系的な合理性や論理では太刀打ちできないことを身に染みて理解しています。また文系の学生の皆さんにも理系分野の面白さを楽しんでほしいと思います。文系に進んだ人は理系に苦手意識があるかもしれません。しかし、私たちがコロナを乗り越えることができたように、理系の技術がこの世界に貢献している力は計り知れません。基礎的なことを理解するだけでも視野が大きく開けてきます。ぜひ理解分野の本を読んだり、定例講座にも足を運んでいただき、理系世界の面白さにも気づいていただけると嬉しいです。

さて、今回のコラムは、学びの中心的な活動となる「読書術」についてです。前編ではおもに以下のことをお伝えします。

そして、後編では、具体的な本の選び方、本の内容を確実に自分のものにするための方法論、そしてこれも読書術の重要なステップとして、本の捨て方までお伝えします。

難しい本は、小説とは読み方が違う

私はこれから本を読んでみようと思っている方が読書をするうえで、ひとつ大きな問題があると思っています。さまざまな本の読み方を、教えてくれる場所がないのです。昔の学生たちは競うように本を読みました。知性への憧憬が強かったからです。しかし、幾多の学生が難解な書籍にチャレンジしましたが、その多くはきちんと理解できていませんでした。マルクスが大流行したとき、誰もが資本論を読みました。私は世代が全然違いますが、向坂訳の資本論を自分で読んでみると、かなり腰を据えて取り組まざるをえないことになりました。読後感として思うのは、これを正確に理解できた学生は本当にひと握りだったのではないかということです。

読書をするときは、正確な理解を積み重ね、付け焼き刃にしないことが重要です。今回は「効率的な読書術」というタイトルで書いていますが、これは苦労もなくインスタントに知識をつけるという意味ではありません。よく3日で理解できる◯◯とか、3時間で習得する◯◯などというタイトルの本がありますが、そのようなことは出来るわけもなく、また表面的な知識など、何の意味もありません。知識は本物に身についたものでなければみっともないだけですから。この記事は、「きちんと通用する知識をつけるための、無駄のない読書術」ということで書いていきたいと思います。

もちろん全てを専門家並みに追求する必要はありませんが、その分野の概要を把握し、ひと通り説明できる程度まで深めることは必要です。取り組んでみれば、納得感の得られる地点がくるはずです。

私は読書や自学の分野について、もっと学生の皆さんを教育界がサポートしたほうがいいと思っています。今も多くの学生たちは、質の高い本の読み方を知らないため、ただ字面を追うだけになっています。これでは内容もよく理解できないし、面白くもない。次の本に手を伸ばす気にならないのも無理はありません。大学でも新入生を対象にこうした講座を開き、丁寧に教えてあげれば、学生の皆さんのその後の伸びが格段に変わってくるのではないかと思っています。

本は種類ごとに読み方が違うのです。本には選び方、買い方からすでに意識すべき重要なポイントがあります。そして得た知識をロスしない工夫があります。今回は、このような「学びを前提とした質の高い読書の技術」についてお話したいと思います。

本の選び方・買い方 本は厳選することが死活的に重要

本から得られた知識は、人生を通じて通用する教養です。読書によって蓄積した知識は、その人の知的財産ですので、何ものにも代え難いものになります。特に興味深い本から得られる知識は、印象が強く、記憶に残りやすくなります。

ところで、皆さんは年間何冊の本を読むでしょうか。ほとんど読まないという人もいれば、速読を含めて1000冊以上の本を読むという人もいると思います。私は読破数だけを伸ばすことには意味を感じていません。むしろ、有意味な本を確実に自分に取り込むことを意識しています。

とはいえ、面白い本と常に出会いたいという気持ちや、許されるならそういう本をずっと読んでいたいというのが本音なので、沢山読みたいという気持ちは持っていますし、その意味で、できるだけ多くの素晴らしい本に出会いたいと思っています。

 

さて、あなたが過去1年間に読んだ本は何冊でしょう。たとえば1年間に30冊だとしたら、あなたは死ぬまでにあと何冊の本を読めるでしょうか。仮に30歳の人であれば、残りを仮に50年として、同じペースで読書を続けると、あと1500冊読める計算になります。この数は多いと思いますか?少ないと思いますか?

私はとても少ないと思います。この世界には何千万冊という本が存在することを考えれば、本当に限られた本しか読めないことになります。だから、何を読むか、一冊を厳選することが非常に重要なのです。

現在50歳の人が、仮に年間3冊の本しか読んでいないとすると、あと90冊しか読めない計算になります。これはえらいことです。

いずれにしても、人は一生のうちにたいした冊数が読めないのです。ですから、読む本は厳選して、本当に読みたい本、読む価値がある本に絞ることが大切です。

ですから、私はいわゆるジャケ買いは一切しません。他人のレビューだけで判断して買うこともありません。基本的に本屋さんに足を運んで実物を手にし、自分の目でしっかり中身を確認して、読む価値があることを見極めてから買うようにしています。

ちなみに速読で読破数を伸ばす人もいますが、速読のひとつの目的は、その本がじっくりと熟読するのに値する本かどうかを判断することにあります。しかし速読をして二度と手に取らないような本もありますので、そのような本まで購入するのは不経済です。ですから私は自宅で速読をすることはありません。先ほども述べたように、読む価値のある本、面白い本は確実に見極めたいので、本屋さんで厳選します。一度に購入するのはだいたい10冊以下ですが、確実に読みたいと思えるものばかりなので、不経済にはなりません。購入した本は基本的にはしっかりと読むのが私のスタイルです。早く読むことよりも、確実に頭に残ることを優先します。

何を読み、何を読まないようにするか

一生のうちに読める本の冊数には限りがありますので、初めから読まないことにしている本もあります。読まなければならない本が多いので、何でも手を出していると、必要な本が読めなくなるからです。

私の場合、いわゆる学術書や教養書が読書の中心になります。逆に文芸作品や推理小説などは読みません。名著と言われる作品やノンフィクションは別として、現代文芸小説は初めから読まないことにしています。例えば、三島由紀夫は読むけれど、最近の純文学や大衆文学は読みません。また、自己啓発本やらハウツー本、ライトノベルなどは一切読みません。

何にフォーカスするのかは、会得したい知識の方向性を定めるうえで非常に重要な手続きです。

なぜ私の読む本が学術書と教養書や新書に偏るのかと言うと、それらの本が世界の形を解き明かそうとするものが多いからです。これが私がフォーカスしたい領域です。特に新書はある学問領域についてその道の専門家がひもといているものが多いので、平易な解説で、比較的正確な理解が得やすく、効率よく学ぶことができます。

一方で、学術書は難解なものも多く、翻訳によっても分かりやすさや作品の魅力が左右されるところがあります。しかし、自分にとって重要な領域については、できるだけ解説者のフィルターを通さずに、現著者の肉声を追うことが非常に大切です。そのため、重要な本については、たとえ翻訳が良くないと思っても、腰を据えて取り組む価値があると思っています。例えば先ほどもでてきましたマルクスの資本論第一巻。私は向坂逸郎の訳は正直最悪だと思います。しかし、他に翻訳がなかった時代はこれを読むことがマルクスの息づかいを理解する手段だったのです。

もちろん翻訳をしていない原典のまま読むことも選択肢ですが、普通は確実に効率が落ちます。原典絶対主義の人もいますが、時間は有限です。同じ時間でより多くのテーマに取り組むほうがよいという考え方も成り立つのです。これは読書の目的をどこに置くかによって変わります。論文を書く生活をしているのか、広く自らの知を耕すことが目的なのかで、自分で選択すれば良いと思います。

本をカテゴリー分けして、読み方を変える

私の場合、2、3冊の本を同時並行で読み進めることは普通です。内容がゴチャゴチャに混乱しないですか?と聞かれることもありますが、何も問題はありません。

私の場合、内容や難易度によって本を3種類にざっくりとカテゴリー分けしています。大まかに3種類に整理してあげることによって、読書が進めやすくなるのです。それは、

①学術書、②教養書・新書、③好きな本、

という整理の仕方です。

また、カテゴリーごとにどこで読むか、いつ読むかという読書のシチュエーションも変えています。

学術書の場合、難解なものについては腰を据えて取り組む必要があり、論理を整理したり、ときには図を描く必要もでてきます。したがって、デスクのあるところ、テーブルのあるところで読むことが多くなります。すなわち書斎やカフェなどがやはり便利です。移動中に読むこともありますが、その後テーブルのあるところで必ずまとめるようにしています。

学術書の読書は、小さな積み木を重ねていくように、一歩ずつ進んでいくことになります。基礎の部分がしっかりしていないと、上に積んだものが簡単に崩壊しますので、一歩ずつ、確実に歩みを進めていくことが大切です。

自分の本には、ためらわず書き込む

私の場合、自分の本に書き込みをすることをためらいません。その昔、本がまだ貴重品だったころは、一冊の本が幾人もの人々に読み継がれました。幕末維新の頃までは写本も当たり前でしたし、明治に入ってからも石板印刷では刷れる枚数に限りがありました。かつて本は大切な財産でした。そんな時代の名残りで、書き込んだりページを折り曲げたりすることはルール違反とされ、私も本は綺麗に読みなさいと教えられてきました。いまでも図書館の本は公共の財産ですから、やはり綺麗に読むのがルールです。共有の本には絶対に書き込んではいけません。

しかし、いまや本は大量生産が可能になり、多くの本の価格は下落しました。財産としての価値も下がったということです。よって、優先するべきことは、私自身が本の中身を早く正確に理解することです。そのために自分の本には赤線を引いたり、メモを書き入れたり、囲いを描いたりと、様々な筆を入れていきます。本を綺麗に残す必要があるなら、もう一冊買えばいいのです。しかし、私の場合綺麗に残さなければならないとか、もう一冊必要だという状況になった試しがありません。

新書や教養書などはなおさらです。一冊千円程度で買えるわけですから、こうした本はもはやワークブックに近いと思っていて、傍線、囲い、キーワードの抜き出し、まとめ、そして湧き出てきたアイデアにいたるまで、遠慮会釈なしに書き込んでしまいます。学術書や教養書は、そうやって自分の本にしていくのが私のスタイルです。

一方、カテゴリー③にあたる好きな本ですが、これは気分転換のための本になります。本で疲れたら本で気分転換をするのです。ではどのような本を読むかと言えば、これはまったく趣味の本なので、何を読んだって構わないと思います。私の場合、ノンフィクションやエッセイ、食に関する回顧録なども読んだりします。また司馬遼太郎さんの時代小説も、気分転換にはもってこいです。

さて、次回はこうした本の中身をしっかり整理して、知識として定着させる方法についてご紹介します。せっかく熟読した本ですが、記憶は時間とともに必ず消えていきます。この方法をするとしないのでは、知識として残る量が圧倒的に違います。次回はそれをご紹介したいと思います。

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