山田 暁生 / Akio Yamada

大学院時代から都立高校の教壇に立ち、2001年より東京の大学附属高等学校教諭。教鞭をとる中で道徳の説明不可能性に着目し探求を始める。

2009年よりイギリスおよびアイルランドに4度にわたり留学。このときに目にしたヨーロッパの人々が学問を愉しむ姿と、日本人の深刻な学問離れに衝撃を受け、リベラルアーツの重要性に着目する。公教育を補完する教育機関の必要性と、より有機的な教育形態を達成するために産学連携を模索。

2023年、外苑ソーシャルアカデミーを設立。シニアフェローとして主にリベラルアーツ領域を担当。SAJ公認スキーインストラクターとしても活動し、教えることの本質を模索している。

皆さまへの少し長いご挨拶

外苑ソーシャルアカデミーのホームページをご覧いただき、ありがとうございます。この教育機関は、若者や大人たちが学びを全力で楽しめる場として誕生しました。ビジネスの知恵やスキルと、学問領域の底力が融合することで設立された、産学連携の学校です。新しい時代に必要な学びとは何か、将来の安心と充実した人生を築き上げるために必要なピースは何か、ビジネスと学問領域で知恵を出し合い、検証と議論を重ねて現在の形に収斂しています。学ぶことが楽しくなること。最先端のビジネスのスキルを還元し、新たな行動力につなげること。ワクワクする学びで人生をエキサイティングなものにすること。私たちは常に率直に意見交換し、様々なタブーや制約で行き詰まりつつある日本の教育を開放したい。そう願っています。

嗅覚の鋭い方々からは新しい教育のスタイルとして早くもお声がけを頂いていますが、質の高いコンテンツを一人でも多くの皆さんに提供したいと思っています。

「将来の安心」と「いまを楽しむ力」

「幸福はお金では買えない」という言葉は、みなさんも時々耳にする言葉だと思います。この言葉、あなたはどう感じますか?ものすごい大金持ちになったら、人生はバラ色になるんじゃないか。望むことは何だってできるのではないか。そんなふうに考えてしまいますよね。しかし残念ながらそれは錯覚です。

確かにお金は幸福な人生を作るための必要条件です。特にこれから日本は不安定な時代を迎えますし、長寿化によって、老後の財源は必ず深刻な問題になります。理想の人生を達成するために、まずは生活の心配や困窮に陥らないよう、経済的なセーフティネットを確立することは重要なことだと考え、GSAでは一つ目の柱としてキャリア形成講座を設置しています。

しかし、残念ながらそれだけでは楽しい人生にはなりません。お金を手にした人がみんな口をそろえて言うのは、「幸せはお金ではない」という言葉。お金を手にしたら幸せになれると思っていた。しかし、いざ手にしてみたら、現実はそうではなかった。通帳の額が増えても、人間として抱える悩みは何も変わらない。これは幸せを求めて努力してきた彼らにとって、かなり深刻な問題なのです。

たしかに食うには困らなくなった。でも、いろいろな問題は変わらずに起こります。家族が病気になったり、いくら頑張っても恋人ができなかったり、人間関係がうまく作れなかったり。時には嫌がらせを受けたり、面倒に巻き込まれることもあるかもしれない。そうでなくても、人生に張り合いがなかったり、何をしてもつまらなかったり。

当たり前のことですが、お金の有無に関わらず、生きていれば嫌なことも悪いことも起こります。お金の力でひとまず一時避難することができる場合もあるかもしれませんが、根本的に防ぐことはできません。悲しい気持ちや苦しさをお金で取り除くこともできません。人生がつまらないと思っても、好奇心をお金で買うこともできません。人生を充実させるのは、お金とはまったく別問題なのです。

私たちが試練を乗り越えていく力や、日々を生き生きと充実させる力、この世界の面白さを発見する力など、人生を前向きに変えるのは、心の力にほかなりません。この世界を楽しむ目が非常に重要です。

GSAは経済面と、世界を楽しみ人生の価値を生み出す力の両面から、充実した人生を作る場所として活動していきます。この2つの目的を同時に求めていくため、GSAの公開講座はキャリア形成とリベラルアーツの2本立てで、それぞれ役割分担をしています。

楽しいことをする その究極が学び

学生のみなさんや、若い社会人の方々と話をしてよく聞くのは、もっと本を読んだり勉強もしなければならないけれど、何から手をつければいいのか分からないし、腰が上がらないということです。もっと努力しようと思いますと言う人も沢山いらっしゃいます。そのたびに、そういうことではないんだけどな、と思います。

本を紹介してほしいと言われることもよくあります。そんなときは、必ず私自身が本当に面白いと思う本を紹介することにしています。そうすると多くの人は私の勧めた本を読んでくれます。しかし、たいていの場合、1冊2冊読んで満足してしまいます。どうして次を探さないのだろうと不思議に思っていましたが、その理由が最近少し分かってきました。

本というものは何でもいいから読めばいいわけではありません。義務で読むものでもありません。私にとって本を読むことは食事をするのと同じ日々の営みです。読みたいと思える本、読んでいて楽しい本と向き合うことが幸せなので、読み終わりそうになると、同じように次に読みたいと思える本があるか心配になります。この「読みたいと思える本」を絶やさないことが重要なのです。だから手近に読みたい新しい本が見当たらないときは、一度読んだ本をまた読むことも少なからずあります。

私は楽しいと思えることを常に探し続けるという意味で、人生を充実させる学びと、本探しはとても似ていると思うのです。次に読みたい本を探すように、日常生活でも次にどんな楽しいことを学ぶか試していく。ただ面白いことを求め続けているだけでいいのです。受験勉強や学術的な実績を残す勉強ではありませんから、少なくとも義務で嫌々やるスタンスは違います。

その一方で、私が本気で面白いと思う本であっても、相手にとって必ずしもそこまで面白いとは限りません。字を見ただけでイヤになってしまう人もいるでしょう。これはもう本の中身に関係なく、反射的に本がイヤなのです。同じものを見ているのに、本は人によって全く異なる意味のものになります。これは人生も世界も同じです。人生がつまらない、世界に関心がないというのはそういうことだと思うのです。

20世紀最大の哲学者といわれるウィトゲンシュタインは、幸福は生に根ざしたものと考え、「幸福な人の世界は、不幸な人の世界とは別の世界である」と表現しました。世界は常に一つの形でそこに存在しますが、それがある人にはつまらないものに見え、ある人には知的な発見の輝きに満ちたものに見えている。まさにこれは、幸福や不幸が私たちを取り囲む「外側の世界」の問題ではなく、私たち経験主体の在り方の問題であることを指摘しているのです。

人生が面白いかどうかは、世界が興味深いものに見えるかどうか。学びを面白いと思えるかどうかも、あなたのマインド次第。問題の本質は「何をすれば楽しいか」ではなく、面白さを見出す目を持っているかどうか。そして、このマインドがあるかどうかが、人生の充実度を決めていくのです。

どこかに楽しいことが転がっているのではないか、自分に合った面白いことがまだ見つけられていないと、つい考えてしまいがちですが、人生を充実させるためには、まずその考えが錯覚だという事実を直視する必要があります。そのようなものはどこにもありませんし、どちらにしろ受け身の楽しさには限界があります。面白いことは自分から獲りにいき、自分で見出し、時には創造しなければなりません。

リベラルアーツは人生を楽しくする

人生を実りあるものにするために一番必要なマインドは、知的好奇心にほかなりません。これは、あらゆることを学びとり、人生を楽しみの価値で満たす力です。一流の魅力的な人は知的好奇心が強く、あらゆることに通じています。仕事や勉強だけではありません。趣味も旅行も、遊びだって一流です。

人が喜びや楽しさを感じるのはどんな時か。ひとつは、興味深い発見や驚き。できなかったことができるようになってきたとき。大きな目標を達成できたとき。経験や知識を誰かに還元し役に立ったとき‥‥。これらに共通するのは知的好奇心と成長です。知的好奇心を開いて世の中を見れば、世界は大きく変わって見えてきます。ワクワクしそうなことを敏感にキャッチするアンテナを張る。ひとつのことに取り組み始めたら徹底的にやる。遊びだからと思って中途半端にやると面白くありません。哲学書に腰を据えて取り組むことも、うどん屋巡りの旅を真剣にやるのも、どちらも本気でやることが大切だと私は思っています。

楽しい時間、強い好奇心、知的欲求、努力する意思、継続する力、そして達成感など、人生をワクワクする時間と前向きな姿勢で満たしていくのがGSAの二つ目の柱であるリベラルアーツ講座です。純粋学問から教養、異文化の経験、スポーツ、趣味、食文化に至るまで、ありとあらゆることを本気で学び、本気で遊ぶ。学問も教養もスポーツも仕事でも一流になる。そして願わくば、本当に人のためになることを考え、真剣に社会に貢献することを志す。野心的に大きな目標に向かって全力で立ち向かう。面白さと本気は一体です。それこそが人生を価値で満たす姿勢にほかなりません。

知的好奇心をもってあらゆることに関心を持ち、人生を120%楽しむ力をつける。GSAの定例講座では、純粋学問、多方面の教養、異文化の探求といったカテゴリーをリベラルアーツ講座のテーマとして扱い、これを知的に楽しむことで人生の価値を満たしていくことを目指しています。一筋縄ではいかない難解なテーマもありますが、仕事や趣味、スポーツ、食生活、旅行にいたるまで、あらゆるシーンの質を変化させていく。GSAは人を本気にさせる場所を目指しています。

さて、私は主にリベラルアーツを担当します。以下、本気で「学び」に取組む意味について説明したいと思います。一言で言えば、学問には世界の見え方を大きく変える力があることをきちんと説明します。踏み込んで考えてみたい方は、お付き合いください。その前にちょっとブレイクをいれてくださいね。 ☕️

公教育の外側にあるもの

いま日本は大きな転換点を迎えています。産業は形を変え、ものづくり中心の形態からより創造的な新しいパラダイムに入りつつあります。この新しい時代を生きるためには、これまでとは異なる考え方が必要になります。いま私たちが提供しようとしているのは、若者から大人まで応援する活動。特に、近未来を読む先見性と行動力、そして斬新な発想と強い思考力を身につけるお手伝いをしたいと考えています。

公教育、すなわち学校教育は、広く国民に基礎知識を提供するという重要な役割を担ってきました。そして大多数の人々に一定の基礎学力と行動規範を行き渡らせました。日本の公教育は長らく社会を支え、現在も非常に重要な役割を果たし続けています。

その一方で、公教育が扱えるテーマにはどうしても限界があり、教育課程に設置された教科・科目の枠におさまらない分野が、学問の世界には沢山存在します。実はその中には、とてもスリリングな世界が広がっています。それは単なる知識や演習では得られないもの。この世界の形を知るうえで欠かせない、数々のピースが散らばっています。

学校の教育課程の外に広がる広大な学びの世界。外苑ソーシャルアカデミーでは、学ぶ意思のある人々だけを対象に、本当に扱うべき重要な事柄について思考し、各分野で次代を牽引する人材を育てることを目的にしています。

学問が映し出す衝撃的な景色

私たちは通常の日常生活のなかで、人間世界の在り方をじっくり見つめるような局面はそれほど多くありません。そこで、自分からあえて立ち止まって、角度を変えてこの世界を眺めてみようとすること、それが学問にほかなりません。そして、学問を通して見ると、人間世界は全く違った形に見えてきます。

たとえば、私たちが常識であると思い込んでいることには、実に多くの誤解がまぎれ込んでいます。ニーチェが善も悪も幻想であることを指摘して以来、学問は人間世界の当たり前を突き崩してきました。言葉には決まった意味があるという誤解、1+1=2は絶対的な真理であるという思い込み、聖書には非現実的なことが沢山書いてあるので、キリスト教に関心を寄せても意味がないという考え方、問題が生じたらルールを作っていくことで次第に社会環境が良くなるという誤解……。こうした様々な思い込みや誤解を解消してきたのが、ニヒリズムであり、言語ゲームであり、非ユークリッド幾何学であり、脱構築であり、その時代時代の学問でした。

学問はその都度、私たちがいかに多くの誤解やバイアスのなかで生きているかを白日のもとに晒し、衝撃を与えてきました。ヨーロッパでは、西洋世界こそが最も優れた文明であるという見方や、社会労働は男の仕事で家事は女性の仕事であるという考えが、(今では考えられませんが)かつては極めて当然の常識でした。人々はそれが正しく美しい生き方であると信じていました。これが偏見であることを発見したのも、構造主義やポスト構造主義といった学問であり、これらは未開とされた国々に光を当て、女性を解放することにもつながったのです。カズオ・イシグロの「日の名残」では、時代の転換点で世界の常識が崩れていくなか、伝統と格式の中で生きてきた誇り高い男が初老を迎え、自らの人生を振り返ります。そして、実はバイアスに人生の全てを捧げてきたことに気づいてしまいます。そこにはもはや取り返しのつかない哀しみが滲み出ているのです。

学問が映し出す従来とはまるで違う世界の形。それは学んだ人だけが見ることのできる衝撃的な景色です。それは、私たち自身が実はまるで別の世界を生きていたのだという現実を知ることであり、それを知った人の人生観は明らかに変わっていきます。知の世界は私たちに特別な体験をさせてくれます。学問の先人たちは論理と思考を積み重ねて、そこに到達したのです。

論理では説明不可能だが重要なことがらにどう向き合うか

その一方で、私たちにはたとえ論理的ではない不合理なものであっても、いや、もっと言えば思い込みや物語であったとしても、とても大切にしていることが沢山あります。善悪の価値観、伝統、文化、正義、誇り、連帯感、家族愛、地域社会への貢献、感謝の気持ち、周囲や弱者への心配り、誠実さ、神様を信じることなど、挙げればきりがありません。道徳観や価値観は、この世界に物体として現に存在しているものではなく、現象的に成立した出来事でもありません。それは意味を作り出す心の働きです。よって、これらがどうして大切なのかを論理で説明することはできません。なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して、「悪いことだから」と言っても、悪を論理で説明することはできないのです。こうした事柄を分析哲学では世界の事実ではないといい、物や現象、論理の世界ではなく、価値に属する領域です。言ってみれば、これらはある種の幻想なのです。

しかし、私たちはこれらの事柄について、たとえ論理で説明できないものであっても、とても重要なものだと考えていると思います。これらの多くは、人間社会が円滑に営まれるよう先人たちが生み出した知恵であったり、あるいは自然と心に湧き出てくるものであったりするわけですが、論理的には不合理でも、人間世界にとっては合理的かもしれないのです。重要なことほど説明ができない。こうしたナンセンスな事柄をどう扱っていけばよいのか。どうやって足場を確保してあげればいいのか。これは私自身が立ち向かってきた課題でもあります。

例えば学校という存在は、政府が国民を統治するために、共通の価値観を植えつける装置であると考えた有名な哲学者がいます。確かに統治の側面から見れば、国民が一定の読み書きそろばん能力を持ち、同じ善悪の価値観を持つことで、社会は発展し、安定もします。法と倫理が行き渡っていれば、統治がしやすいのも事実です。でも学校でおかしな価値観を植えつけられたりしたら、その国はとても歪んだ国になってしまいます。学校は管理体制も行き渡っている。だからその哲学者は権力に対して常に敏感になり、警戒するべきだと考えました。国家による教育は怖いものだというのです。

でも一方で、私たちにとって学校は、若者たちの青春の舞台であり、多くのことを学んだり、かけがえのない経験を沢山することができる場所、子どもたちにとって、とても大切な場所です。恋愛もするだろうし、一生の親友だってできる。恩師との出会いもある。先生が守ってくれる安全な場所でもある。いや、人によってはいじめられたりして、すごく嫌な場所かもしれない。でも、いずれにしても、国家権力による管理と洗脳の場所だと感じていた人はあまりいないのではないでしょうか。物事は多面的に見ることで、様々に形を変えていくのです。

勉強嫌いが生まれてきた構造 一 勉強への苦手意識というバイアスから若者を解放する

私はイギリスで勉強をしていたときに、様々な国籍の社会人や学生たちと交わりました。特にヨーロッパの人々は、自分が興味を持っていることや自分の考えを熱く語ってくれます。学生たちも、彼らなりに知っていることを一所懸命に伝えようとします。この人たちが勉強が好きなのだということが伝わってきます。

一方で、日本はどうでしょうか。日本の教育は基礎学力を徹底して習得します。基礎学力は広く国民に行き渡り、かつて日本人の数学の力は世界一でした。理数の基礎学力は多くの産業を支え、誰もが知るようにひと昔前の日本は、圧倒的な技術力で世界を牽引する大国でした。しかし、今は斜陽の時代。いくつかの原因がありますが、従来の教育システムが時代に追い抜かれ、限界を迎えたことも理由の一つです。

そして、そんな従来の教育のやり方は、残念ながらあまり学問の面白さを優先したものではありませんでした。大人たちからは、必死で勉強していい大学に入って、いい会社に就職すれば人生安泰だとも言われました。勉強は身を立てるための手段でした。戦後は貧乏な人も多くて、確かに学歴で一発逆転ができた時代でした。

でも、「勉強していい大学に入れば…」という価値観は、裏返せば勉強をさぼり、いい大学に入れなければ人生おしまい、つまらない価値のない人生になってしまうという強迫観念を暗に植えつけたのではないかと思います。これは神の言うことを聞かないと、最後の審判で地獄に落ちることになる。まるでキリスト教の終末論です。乱暴な言い方をすれば、日本人は脅されて勉強をしてきた部分がある。これはいい意味で競争原理が働いた側面も確実にあると思いますが、学問へのモチベーションとしてはちょっと不健全です。

もちろん勉強は楽しいものばかりではなく、地道な暗記も演習もある。でも、それによって多様な思考が可能になり、より興味を深めていける次元につながる。最初はグッと努力しなくてはならなくても、そのあとに発見の大きな喜びがある。従来の教育はそれを明確に見せられなかった。これでは勉強を楽しむ対象として見るという発想はなかなか生まれません。実際に身を立てるために必死で勉強した人、勉強が楽しいなんて考えたこともなかったという人は沢山いたはずです。

貧しい時代、生きるためにみんな必死だった。それは何も悪いことではありません。みんな明るい未来を夢見て、切磋琢磨して一時代を作り上げた。本当に凄いことです。でも、これからもそれだけでいいのだろうか。

これだけ時代が変わった今でさえ、高学歴志向は大きなニーズとして残っている。ニーズがある以上、学校もそれに応えなくてはならない。このジレンマは平行線のまま構造化してしまいました。この価値観は受験競争の過熱につながり、勉強といえば受験勉強や試験勉強を連想させる。そして、勉強は嫌なもの、キツいものという思考回路を多くの日本人に植えつけました。日本の大学生は本当に勉強をしないとよく言われますが、それはこのような構造的な問題なのだと思います。大学にさえ合格してしまえはこっちのもの。そう考えるのも無理はありません。でも、それはようやくこれから面白い学問に触れていける切符を手にしたのに、美しい景色を見ることなく、次の駅で降りてしまうようなものです。もったいないと思います。

これからは面白い学びを愉しむ時代

私たちは学問の面白さを日本人の手に取り戻したい。同時に時代の変化と技術革新のもたらす未来に備えて行きたいと思っています。

詰め込み型にもそれなりの意味はある。でもそれだけでは対応できなくなっているのは事実です。黄金時代の幻影を追いかけて、思考停止してはいけないと思います。昨今のAIの躍進により、これから消滅する仕事が沢山あると予測されています。産業のあり方も変わります。それは教育現場でも進路指導の考えの中に入れていかなければなりません。個人の生き方、人生設計も変わります。ビジネスパーソンはもとより、公務員や教員の仕事にも、時代の移り変わりを読む先見性とイノベーションが求められる時代です。また、起業を目指す方も、時代のニーズや方法論をつかむ必要があります。

いまの学校教育では、話したくても話せないことが沢山あります。大切な議論をしたくても、センシティブなテーマはなかなか掘り下げることができません。これも今どき仕方がありません。公教育だって頑張っているけれど、どうしても限界がある。でも大事なことはやはり本気で考えなくてはなりません。私たちは公教育が踏み込めないところを補い、日本の教育をより完全な形にしたい。そのためにタブーを排除して、繊細な問題にも切り込む場が必要だと考えています。

新たな時代に必要な力。外苑ソーシャルアカデミーの提供する、世界の変化をとらえる実践的なキャリア教育は知見を広げ、即効性を発揮します。また人間世界の形を把握し、強靭な思考力と多角的な発想力を鍛えるリベラルアーツはそれを支える底力を発揮します。キャリア教育とリベラルアーツは相乗効果を発揮する関係にあります。どちらにも集中して取り組むことで、どちらの力も最大化されていきます。まずは自らが新しい時代を生き抜く力をつける。そして日本社会や世界のために何ができるかを考える。自分自身のことはもとより、他者や次世代のために動くことができるぐらいの力をつけていきましょう。

私は主にリベラルアーツを担当しますが、様々な分野の入り口まで皆さんを先導します。ぜひそこに至る道のりを一緒に楽しんでいければと思います。そこから先はあなた次第です。専門書を手にじっくりと課題を掘り下げていくのもいいと思います。また、そこから派生した関心をもって別の領域の扉を開くのもよいかと思います。私自身も学びの道なかば。ぜひ一緒に学んで行きましょう。

この長い文章を最後まで読んだあなたは資質十分です。お会いできることを楽しみにしています。