日本人の英語力

皆さんこんにちは。外苑ソーシャルアカデミーの山田です。日本は連日の猛暑で、過去最も暑い夏になったとのことですが、イギリスは朝は10℃前後の日が続いています。私のいる大学寮も夜になると暖房が入ります。昼はときには25℃を超えることもありますが、それでもとても涼しいです。ただし、日差しはかなり強いですが。

さて、夏の間オクスフォードには沢山の人が訪れます。観光で訪れる人々も少なくありませんし、語学研修や大学のサマーセッションなど勉強のために訪れる人々も少なくありません。日本からも大学生が沢山来ており、何人もの人たちと話をする機会がありました。彼らと話をしていて、ひと昔前と大きく変わったと思うことがあります。それは日本人大学生の英語力がかなり上がったことです。

海外の大学のlanguage servicesや語学学校では、入学した生徒の英語力のレベル分けを行います。基本的には下から順に、elementary、pre-intermediate、intermediate、upper-intermediate、advancedという五段階に分けられ、場合によってはさらに細かく分けられることもあります。ひと昔前、すなわち私がイギリスやアイルランドで勉強していた12〜14年前、日本人は圧倒的にpre-intermediate からintermediateに振り分けられていました。

intermediate というのは中級クラスという意味ですが、中級とは言えヨーロッパからきた生徒たちはすでにガンガン話します。日本の学生は文法ができるのでこのクラスに入ることがありますが、一般的にはなかなか言葉が口から出てきませんでした。英語学習では、読む•書く•話す•聴くのいわゆる「四技能」のどれもが大事ですが、かつての日本人は読むと書くが得意、逆に聞くことと話すことが極端に不得意でした。しかしヨーロッパなどからの留学生は逆のことが多く、文法は今ひとつでも聴くことと話すことは比較的得意な人が多いのです。しかし、言語はコミュニケーションツールなので、やはり読める•書けるよりも、聴ける•話せるの方が表徴的には優位に見えてしまいます。General Englishの授業の中で「聴けない」「話せない」というのはキツいものです。もう大昔の話になりますが、私自身初めて留学をして、最初の授業を受けたとき、先生の話が本当に聞き取れず、非常につらい思いをしたことを今でもよく覚えています。

 もちろん今でもpre-intermediateやintermediate で学ぶ日本の学生たちも沢山いますが、upper-intermediateにもかなりの大学生が入るようになり、中にはadvancedに入る学生も出てきました。しかも初めての留学であるにもかかわらず、そういうクラスに入る学生が増えてきたのです。レベル分けは文法のテストと会話面接の両方で厳密に行われますので、レベル分けの基準が変わったわけではありませんし、本人の希望で分けられるわけでもありません。日本人の学生の英語力は確実に上がっています。私の目から見ても、言葉数が明らかに増え、自信を持って話をする学生がとても増えました。

なぜ日本人大学生の英語力が上がっているのでしょうか。

これは日本の公教育における英語教育の改革と、大学入試の変化、そして大学での英語教育の変化などによるところが大きいと思います。

ひと昔前までの日本の英語教育は、文法や読解を中心に行われてきました。日本人にとって英語を勉強する目的は入試だったからです。入試問題自体が文法や読解力を中心としたものであり、学校でも文法や読解が中心の英語教育が長年行われてきました。しかしそのやり方では、中学から大学2年生ぐらいまで8年間も英語を学んでいるのに、ほとんど英語を話せない人が大半でした。英語を教える英語教師自身、読解や文法はかなりできたとしても、まともに話せないことも珍しくなかったのです。教える側がそれでは、そうした特質が再生産されていってしまいます。

実はこのような日本の英語教育は、世界的に見ればかなり独特でした。言語とは本質的にコミュニケーションツールなので、話せるようにならないような言語教育というのは、ある意味一種の自己矛盾です。スペインやイタリアなどヨーロッパの大半の国では、従来からそれなりに会話ができるような教育を行ってきました。とはいえ、語彙力や正確な文法というのもとても大切なことなのですが。その後日本にも本格的に外国人が増え、また国際競争の観点からしても、国民的に語学にハンデがある状況は好ましくないということになり、日本全体にコミニカティヴな英語教育にシフトする機運が高まりました。企業では英語学習を奨励し、社内の公用語に英語を採用する会社も増えてきました。英語を話せることが当たり前という時代を目指し始めたのです。文科省はより実践的な英語教育を行うように、公教育の英語教育を改革し始めます。小学校での英語教育が始まり(これには異論も大いにありますが)、次第にネイティブスピカーの教師の数も増え、高校の英語の授業は英語で行う方向まで打ち出されました。リスニングも重視されるようになり、入試においてもリスニングの得点比重が上がり、模擬試験のリスニング問題のレベルも確実に上がっています。また、TOIECやIELTS、英検などの外部検定の成績が大学入試に反映されるようになったことも、高校生がこうした英語検定に取り組むようになったことに大きく影響しています。

 また大学においてもこれらの英語検定を重視するようになり、受験を推奨するようになりました。学生たちは定期的に英語の検定を受けることが当たり前になりました。

 こうしたことは、日本人の英語力という一点に限れば大きな進歩にほかなりません。しかし、この一点だけを見てめでたしとするのは拙速で、こうした事柄は全体を見て評価する必要があります。問題は本来学ぶべきより本質的な事柄がどうなっているのかです。例えば大学での専門の勉強への取り組みはどうなっているのか、日本語が確立されていない小学生の時期から外国語を履修させるために、他のどの科目をどの程度削っているのかについては、あまり知られていません。英会話というのはスキルに過ぎず、本質的な学問ではありません。物事はすべからくトレードオフで行われますが、良い面ばかりでなく、悪影響の評価もなされて初めてフェアに評価がされるのです。

私は英語で会話できることは素晴らしいことだとよく分かっています。これまで私が心を通わせて、同じ時間を過ごしてきた外国人たちは少なからぬ数にのぼりますが、彼らとのかけがえのない時間は英語なしに成立するわけがありませんでした。世界各国に住む人々は、どんな考え方をし、どんな文化をバッグラウンドにしているのか。彼らは私たちと同じところも、異なるところも持っています。共感できるところも大いにあり、しかし時に共感できないところも出てくる。楽しい時間を過ごすこともあれば、本気で意見を戦わせることもある。これは英語の力なしにできることではありません。

しかし、こうした英語が開いてくれる素晴らしい世界があるとしても、学びの本質はあくまでも学問のほうにあることは厳然たる事実です。これは海外の大学に足を踏み入れればすぐにわかります。英語が話せることなど何一つ評価されません。ここでは学問的にどれだけのことをやってきたかですべての評価が決まるのです。海外では英語が話せなかったら話になりませんが、本質的なところで勝負ができなかったらもっと意味がないのです。英語ばかりに集中するのは本末転倒です。これはどちらを取るかという議論ではなく、どちらもできなくてはならないということです。もっとも語学には集中して取り組む時期があってもよいとは思います。その方が効率がよいのも事実です。しかしそれだけで終わってはいけません。

英語は必要になったときに必死でやればなんとかなりますが、専門はそうはいきません。これは教養も同じです。また、学生時代や20代のうちは、深くものを考えたり、将来を切り拓く思考を続けることも大切です。大学生の皆さんには、本道本質である学びとして、まず専門分野と教養を徹底的に学ぶこと、本をしっかり読み続けること、そして英語にもしっかり取り組んでほしいと思います。

確かに語学は若いうちの方が身につきます。外資系などを中心に、就職活動の履歴書に英語の検定のスコアを書くことも必要かもしれません。しかし、あまり目先にとらわれすぎないことです。就職に必要ならやればいい。でもあくまでも本質的なことを徹底しながら、そのぐらいのことはやってのけましょう。学校のカリキュラムはトレードオフですが、個人の学びに制限はないのですから。

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