
- 外苑ソーシャルアカデミー 代表 シニアフェロー
- 國學院高等学校教諭
- 社会教育者
- SAJ公認スキーインストラクター
- Gaien Social Academy Director, Head scholar
- University affiliated senior high school in Tokyo. Teacher
- Social educator
- Ski Association Japan certified ski instructor
大学院時代から都立高校の教壇に立ち、2001年より東京の大学附属高等学校教諭。教鞭をとる中で道徳の説明不可能性に着目し探求を始める。
2009年よりイギリスおよびアイルランドに4度にわたり留学。オックスフォードとダブリンの大学で研究調査をしながら、海外大の教育力の高さに触れ、総合知としてのリベラルアーツの視点から日本の教育問題に取り組み始める。公教育を補完する教育機関の必要性と、日本の教育現場の問題を解消するための実験形態として産学連携を模索。
2023年、外苑ソーシャルアカデミーを共同設立。2024年、全世代型教育機関・サードプレイスコミュニティー・教育問題解消の実験形態として本格始動。シニアフェローとして主にリベラルアーツ領域の講義を担当。SAJ公認スキーインストラクターとしても活動し、教えることの本質を模索している。2023年、東京私学教職員連盟より優秀教員として表彰。
GSAとはどんなところか
外苑ソーシャルアカデミー(GSA)のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。外苑ソーシャルアカデミー (GSA)は、新しい時代に真に必要な学びと経験を追求している学校です。「学校では教えてくれないけれど、本当に大切なこと」を現役の学校の先生たちが選び、大人でも知的好奇心をかき立てられる楽しい学びとして形作るのがGSA。価値の高い学び・遊びを通じ、みんなで楽しく成長していくコミュニティーとしてGSAは発足しました。この活動を続けることによって私自身も膨大な学びを得ています。
より良い明日をみんなで創造していきたい。大人から子どもまで、誰でもふらっと来られる、みんなの居場所になれるコミュニティー。それがGSAです。
GSAで経験できる 4つのこと
GSAがあなたに提供するのは新時代に必要な4つの要素。新時代に必要な考え方や活動のなかから優先度の高い要素を抽出しています。
1つめはキャリア形成。ビジネスの哲学とスキル、ライフプランの考え方、お金の意味について、IT技術、実践的な語学習得、経済政策理論など、未来志向の創造性の高い思考のスキームをお伝えします。例えばみんながインフレで困っている時代、日本経済がどうなっているのか、政策が正しいのかどうかもよく分かってきます。
2つめはアカデミズム。日本という国の真の姿、そして世界のカタチを知ること。私たちが育まれた日本という国の歴史と文化の姿にはまだまだ知られていない面が沢山あります。まずは日本をきちんと知ること。また、同時に世界全体を見る視点も大切。この世界が形作られてきた人類の歩みを知り、多面的な眺望点から対象を見つめる視座を習得する。さらに文化・民族・国家・宗教・紛争・正義といった、論理では答えの出ないアポリアに挑む強靭な思考力を身につける。GSAでは難解なテーマを分かりやすくお伝えする講義を展開します。壮大なテーマでもGSAに参加しているうちに点と点がどんどんつながっていきます。
3つめにくるのは、フィジカル・アウトドアワーク、つまり自然体験です。人間も動物の一種であり、身体能力と同様、思考する力や生存本能、コミュニケーション能力、心の健康や強さなども野生の力であることを忘れてはいけません。高い生活の中で退化していく野生の生命力や思考力を呼び起こす自然体験は、これからの時代に特に必要な活動です。自然の中で生きながら、自分日身の心と体を使い切り、動物としての生命力を引き出し、眠っていた脳を活性化していきます。
そして4つめに、多くの人たちとのリアルな交流。人間関係までがデジタルに媒介される時代において、リアルに集まり、語り、創造的な関係を大切にすること。他者を信頼し、自らも信頼されるコミュニティーは、人生において必要不可欠です。
これらの4つこそ、GSAが考える真に必要な要素であり、現代において積極的に求めていかなければならない体験であると考えています。GSAはワークショップとイベントを通じ、これらを実効的かつ楽しく企画していきます。
GSAでは質の高いコンテンツを一人でも多くの皆さんに提供しながら、日本の教育の未来を模索していきます。そしてここで得たノウハウを公教育に還元する。私たちが目指しているのはそんな組織です。
日々が楽しいかどうかは自分で決められる
20世紀最大の哲学者といわれるウィトゲンシュタインは、幸福は生に根ざしたものと考え、「幸福な人の世界は、不幸な人の世界とは別の世界である」と記しました。世界は常に一つの形でそこに存在しますが、それがある人には色褪せたらつまらないものに見え、ある人には発見の輝きに満ちた色鮮やかなものに見えている。まさにこれは、幸福や不幸が私たちを取り囲む「外側の世界」の問題ではなく、私たち経験主体の在り方の問題であることを指摘しています。
人生が面白いかどうかは、世界が興味深いものに見えるかどうか。学びを面白いと思えるかどうかは、私たちのマインド次第です。問題の本質は「何をすれば楽しいか」ではなく、面白いと感じられるあなたであるかどうか。このマインドがあるかどうかで、あなたの人生の充実度が決まります。
どこかに楽しいことが転がっているのではないか、自分に合った面白いことがまだ見つからないとつい考えてしまいがちですが、まずその考えが錯覚だということを直視する必要があります。そのようなものはどこにもないし、所詮受け身の楽しさには限界があります。人生とこの世界を面白がる目と心を得ることができたら、あなたの明日は大きく変わります。
私たちGSAは面白いものがいっぱい詰まったコンテンツを創り出します。ワクワクする心を持ってぜひそれを受け取りに来てください!
学問が映し出す衝撃的な景色
ここからは、少し難しい話になります。学ぶことにはどんな意味があるのか、学問の力とは何かということについて、私なりの解釈をお伝えします。どうぞ興味のある方だけお付き合いください。
私たちは通常の日常生活のなかで、人間世界の在り方をじっくり見つめるような局面はそれほど多くありません。そこで、自分からあえて立ち止まって、角度を変えてこの世界を眺めてみようとすること、それが学問にほかなりません。そして、学問を通して見ると、人間世界は全く違った形に見えてきます。
たとえば、私たちが常識であると思い込んでいることには、実に多くの誤解がまぎれ込んでいます。ニーチェが善も悪も幻想であることを指摘して以来、学問は人間世界の当たり前を突き崩してきました。言葉には決まった意味があるという誤解、1+1=2は絶対的な真理であるという思い込み、聖書には非現実的なことばかり書いてあるので、キリスト教に関心を寄せても意味がないという考え方、問題が生じたらルールを作っていくことで次第に社会環境は良くなるという誤解……。こうした様々な思い込みや誤解を解消してきたのが、ニヒリズムであり、言語ゲームであり、非ユークリッド幾何学であり、脱構築であり、その時代時代の学問でした。
学問はその都度、私たちがいかに多くの誤解やバイアスのなかで生きているかを白日のもとに晒し、衝撃を与えてきました。ヨーロッパでは、西洋世界こそが最も優れた文明であるという見方や、社会労働は男の仕事で家事は女性の仕事であるという考えが、(今では考えられませんが)かつては極めて当然の常識でした。人々はそれが伝統的で美しい生き方であると信じていました。これが偏見であることを発見したのも、構造主義やポスト構造主義といった学問であり、これらは未開とされた国々に光を当て、女性を解放することにもつながったのです。カズオ・イシグロの「日の名残」では、時代の転換点で世界の常識が崩れていくなか、イギリスの伝統と格式の中で生きてきた誇り高い男が初老を迎えたとき、自らの人生を振り返ります。そして、実は無意味なバイアスに人生の全てを捧げてきたことに気づいてしまいます。そこにはもはや取り返しのつかない哀しみが滲み出ているのです。
学問が映し出す従来とはまるで違う世界の形。それは学んだ人だけが見ることのできる衝撃的な景色です。それは、私たち自身が実はまるで別の世界を生きていたのだという現実を知ることであり、それを知った人の人生観は明らかに変わっていきます。知の世界は私たちに特別な体験をさせてくれます。学問の先人たちは論理と思考を積み重ねて、そこに到達したのです。
論理では説明不可能だが重要なことがらにどう向き合うか
その一方で、私たちにはたとえ論理的ではない不合理なものであっても、いや、もっと言えば思い込みや物語であったとしても、とても大切にしていることが沢山あります。善悪の価値観、伝統、文化、正義、誇り、連帯感、家族愛、地域社会への貢献、感謝の気持ち、周囲や弱者への心配り、誠実さ、神様を信じることなど、挙げればきりがありません。道徳観や価値観は、この世界に物体として現に存在しているものではなく、現象的に成立した出来事でもありません。それは意味を作り出す心の働きです。よって、これらがどうして大切なのかを論理で説明することはできません。なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して、「悪いことだから」と主張しても、悪を論理で説明することはできないのです。こうした事柄を分析哲学では「世界の事実ではない」といい、物や現象、論理の世界ではなく、価値に属する領域として整理しています。言ってみれば、これらはある種の幻想なのです。
しかし、人を殺してはいけないという価値観が幻想だとしても、じゃあ人を殺してもいいということにはなりません。私たちはこれらの事柄について、たとえ論理で説明できないものであっても、とても重要なものだと考えていると思います。これらの多くは、人間社会が円滑に営まれるよう先人たちが生み出した知恵であったり、あるいは自然と心に湧き出てくるものであったりするわけですが、論理的には不合理でも、人間世界にとっては合理的なものです。だから法で縛る必要が出てくるのです。
問題は重要なことほど説明ができないということ。こうしたナンセンスな事柄をどう扱っていけばよいのか。どうやって足場を確保してあげればいいのか。これは私自身が立ち向かってきた課題でもあります。
例えば学校という存在は、政府が国民を統治するために、共通の価値観を植えつける装置であると考えた有名な哲学者がいます。確かに統治の側面から見れば、国民が一定の読み書きそろばん能力を持ち、同じ善悪の価値観を持つことで、社会は発展し、安定もします。法と倫理が行き渡っていれば、統治がしやすいのも事実です。でも学校でおかしな価値観を植えつけられたりしたら、その国はとても歪んだ国になってしまいます。学校は管理体制も行き渡っている。だからその哲学者は権力に対して常に敏感になり、警戒するべきだと考えました。国家による教育は怖いものだというのです。
でも一方で、私たちにとって学校は、若者たちの青春の舞台であり、多くのことを学んだり、かけがえのない経験を沢山することができる場所、子どもたちにとって、とても大切な場所です。恋愛もするだろうし、一生の親友だってできる。恩師との出会いもある。先生が守ってくれる安全な場所でもある。いや、人によってはいじめられたりして、すごく嫌な場所かもしれない。でも、いずれにしても、国家権力による管理と洗脳の場所だと感じていた人はあまりいないのではないでしょうか。物事は多面的に見ることで、様々に形を変えていくのです。
勉強嫌いが生まれてきた構造 一 勉強への苦手意識というバイアスから若者を解放する
私はイギリスで勉強をしていたときに、様々な国籍の研究者や社会人、学生たちと交わりました。特にヨーロッパの人々は、自分が興味を持っていることや自分の考えを熱く語ってくれます。学生たちも、彼らなりに知っていることを一所懸命に伝えようとします。この人たちが勉強が好きなのだということが伝わってきます。
一方で、日本はどうでしょうか。日本の教育は基礎学力を徹底して習得します。基礎学力は広く国民に行き渡り、かつて日本人の数学の力は世界一でした。理数の基礎学力は多くの産業を支え、誰もが知るようにひと昔前の日本は、圧倒的な技術力で世界を牽引する大国でした。しかし、今は斜陽の時代。いくつかの原因がありますが、従来の教育システムが時代に追い抜かれ、限界を迎えたことも理由の一つです。
そして、そんな従来の教育のやり方は、残念ながらあまり学問の面白さを優先したものではありませんでした。大人たちからは、必死で勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職すれば人生安泰だとも言われました。勉強は身を立てるための手段でした。戦後は貧乏な人も多くて、確かに学歴で一発逆転ができた時代でした。
でも、「勉強していい大学に入れば…」という価値観は、裏返せば勉強をさぼり、いい大学に入れなければ人生おしまい、つまらない価値のない人生になってしまうという強迫観念を暗に植えつけたのではないかと思います。これは神の言うことを聞かないと、最後の審判で地獄に落ちることになる。まるでキリスト教の終末論です。乱暴な言い方をすれば、日本人は脅されて勉強をしてきた部分がある。これはいい意味で競争原理が働いた側面も確実にあると思いますが、学問へのモチベーションとしてはちょっと不健全です。
もちろん勉強は楽しいものばかりではなく、地道な暗記も演習もある。でも、それによって多様な思考が可能になり、より興味を深めていける次元につながる。最初はグッと努力しなくてはならなくても、そのあとに発見の大きな喜びがある。従来の教育はそれを明確に見せられなかった。これでは勉強を楽しむ対象として見るという発想はなかなか生まれません。実際に身を立てるために必死で勉強した人、勉強が楽しいなんて考えたこともなかったという人は沢山いたはずです。
貧しい時代、生きるためにみんな必死だった。それは何も悪いことではありません。みんな明るい未来を夢見て、切磋琢磨して一時代を作り上げた。本当に凄いことです。でも、これからもそれだけでいいのだろうか。
これだけ時代が変わった今でさえ、高学歴志向は大きなニーズとして残っている。ニーズがある以上、学校もそれに応えなくてはならない。このジレンマは平行線のまま構造化してしまいました。この価値観は受験競争の過熱につながり、勉強といえば受験勉強や試験勉強を連想させる。そして、勉強は嫌なもの、キツいものという思考回路を多くの日本人に植えつけました。日本の大学生は本当に勉強をしないとよく言われますが、それはこのような構造的な問題なのだと思います。大学にさえ合格してしまえはこっちのもの。そう考えるのも無理はありません。でも、それはようやくこれから面白い学問に触れていける切符を手にしたのに、美しい景色を見ることなく、次の駅で降りてしまうようなものです。もったいないと思います。だから私は受験勉強が嫌いです。受験勉強であっても、できるだけ学問の面白さや発見とともにあるべきだと考えています。実際その方が受験生たちの力も伸びるのですから。
これからは面白い学びを愉しむ時代
私たちは学問の面白さを日本人の手に取り戻したい。同時に時代の変化と技術革新のもたらす未来に備えて行きたいと思っています。
詰め込み型にもそれなりの意味はある。でもそれだけでは対応できなくなっているのは事実です。黄金時代の幻影を追いかけて、思考停止してはいけません。昨今のAIの躍進により、これから消滅する仕事が沢山あると予測されています。産業のあり方も変わります。この変化にはもはや詰め込み教育では対応できないし、教育現場の進路指導の考えの中にも日本の産業の変化を入れていかなければなりません。個人の生き方、人生設計も変わります。ビジネスパーソンはもとより、公務員や教員の仕事にも、時代の移り変わりを読む先見性とイノベーションが求められる時代です。また、起業を目指す方も、時代のニーズや方法論をつかむ必要があります。
いまの学校教育では、話したくても話せないことが沢山あります。大切な議論をしたくても、センシティブなテーマはなかなか掘り下げることができません。これも今どき仕方がありません。公教育だって頑張っているけれど、どうしても限界がある。でも大事なことはやはりどこかで話さなくてはならないし、本気で考えなくてはなりません。私たちは公教育が踏み込めないところを補い、日本の教育をより完全な形にしたい。そのためにタブーを排除して、繊細な問題にも切り込む場が必要だと考えています。
新たな時代に必要な力。外苑ソーシャルアカデミーの提供する、世界の変化をとらえる実践的なキャリア教育は知見を広げ、即効性を発揮します。また人間世界の形を把握し、強靭な思考力と多角的な発想力を鍛えるリベラルアーツはそれを支える底力を発揮します。キャリア教育とリベラルアーツは相乗効果を発揮する関係にあります。どちらにも集中して取り組むことで、どちらの力も最大化されていきます。まずは自らが新しい時代を生き抜く力をつける。そして日本社会や世界のために何ができるかを考える。自分自身のことはもとより、他者や次世代のために動くことができる力をつけていくことが日本を変える唯一の道だと思います。
私は主にリベラルアーツを担当しますが、様々な分野の入り口まで皆さんを先導します。ぜひそこに至る道のりを一緒に楽しんでいければと思います。そこから先はあなた次第です。専門書を手にじっくりと課題を掘り下げていくのもいいと思います。また、そこから派生した関心をもって別の領域の扉を開くのもよいかと思います。私自身も学びの道なかば。ぜひ一緒に学んで行きましょう。
この長い文章を最後まで読んだあなたは資質十分です。GSAでお会いできることを楽しみにしています。